教育現場で働いていると、子どもが虐待を受けていることに気づく場面があるかもしれません。
「そんなとき、どんな対応をしたらいいのかを知っておいてほしい。知らないと、一人の命を奪ってしまうことにつながるから」。そう語るのは、4歳から11歳まで、義父から虐待を受けていた経験を持つブローハン聡さん。
彼が虐待を受けていることに気づいたのは、小学校の先生でした。「そのことで命をつないでもらえた」と、ブローハンさんは振り返ります。
学校で子どもの虐待に気づいたとき、子どもとどう向き合ったらいいのか。ブローハン聡さんに話を聞きました。
ブローハン聡さんのプロフィール
1992年、東京にてフィリピン人の母、日本人の父の間に婚外子として生まれる。4歳から11歳まで、母の結婚相手(義父)から虐待を受ける。11歳のときに小学校の先生が虐待に気づき、保護されて児童養護施設へ。14歳のときに母を乳がんで亡くす。施設卒園後は病院の看護助手、ドコモショップなどで働く一方、フリーのモデル・タレントとして活動。現在は芸能活動を続けながら、埼玉県の一般社団法人コンパスナビで、社会的養護出身の若者の居場所・拠り所をつくる「児童養護施設退所者等アフターケア事業(クローバーハウス)」に携わる。また、児童養護施設出身者として、セミナーやトークイベントなどへの出演やYoutubeの配信など、積極的に当事者活動を行っている。
(聞き手 / 田中れいか)
学校が居場所になっていた
ーブローハンさんの小学校時代のことを教えてください。
ブローハン聡(以下、聡):家よりも学校のほうが、自分を出してた気がします。僕が4歳の時に母が再婚して以来、義父から虐待を受けていたんですが、家だと義父の機嫌や表情を気にしていたし、足音ひとつたてるのも神経を使っていたような状況で。そういう心配がない学校は、すごく気が楽でした。
ー気が楽でいられる要因はなんだったんでしょう?
聡:今になって思えば、小学校の先生が受け入れてくれたことかなと思っています。僕が通っていた学校は全校生徒が25人だったんですけど、工場がたくさんあって外国労働者が多い町だったから、外国出身の親を持つ生徒も多くて。アフリカとかインドネシアの親に育てられたので、肉や魚を食べれない子もいました。
僕はお母さんがフィリピン人で、外国の文化の影響を受けて育っている部分もあったんです。たとえば食文化も、他の生徒とはちょっと違ったり。でも、それもすんなり先生が受け入れてくれたので、文化や容姿が違うことで珍しがられたり、排除されたりっていうことはなかった。外国の親を持つ生徒を受け入れやすい環境だったんだと思います。先生が優しかったなぁっていうイメージはずっと残ってますね。
虐待がバレることは、生命のリスクを負うことだった
ー小学5年生のとき、先生が虐待に気付いて、児童相談所に連絡したんですよね。
聡:そうです。お尻とか、他人に気付かれにくいところをライターであぶられることがあったんですけど、その火傷のせいで、朝の出席確認をするタイミングでお尻がすっごい痛くて、椅子にちゃんと座れなかったんですよ。
その日は本当にちょっとだけ、椅子の右の方に座ってたんです。先生にもバレないように。でも、先生はそれをちゃんと見ていたんですね。みんなが授業を受けるために違う部屋に移動するときに、自分だけ先生に呼ばれて。教室の廊下だったっけなぁ。それもよく覚えてないんですけど、人気が少ないところに連れて行かれて、質問されました。
先生たちが5人くらい集まってきて。担任の先生と、となりのクラスの担任、保健室の先生、副校長、校長だったかな。おそらく先生たちは、前々から虐待の疑いを持ってたんだと思います。ズボンをペロッとめくられて、もう言い逃れができないような状況になりました。
ーその時はドキッとしましたか?
聡:めちゃくちゃドキッとしましたね。いきなり5人の大人に囲まれるのも怖いし。大人1人でも子どもにとっては圧があるのに、どんどん人が増えていって。しかも、疑われている雰囲気で。
僕は悪いことはしていないんだけど、悪さをしてバレちゃったときの感覚にすごく似ていました。多分これまでの人生でいちばんドキッとしたのはそのときだと思います。
ーその先生たちに対しては、今はどう思っていますか?
聡:その瞬間に命が繋がったと思うので、今では見つけてくれたことに感謝しかないですよ。そのときはバレたくない気持ちが大きかったけど。
ーどうして当時はバレたくないと?
聡:バレてしまうと、自分が傷つくことになるから。誰かに虐待がバレることは、自分が生命のリスクを負うことなんですよ。バレてしまうことによって、虐待が悪化して、本当に死ぬんじゃないかなって思ってたんです。本当に、当時は義父に心臓をつかまれているような感覚で。
「話しても状況が悪化しない」っていうふうに、安心安全が担保されている状態じゃないと、虐待がバレてしまうのはすごい怖いんですね。だからこそ、その子ども自身から虐待について話すことって、ほぼないと思うな。年齢を重ねれば重ねるほど、自分から伝えることは難しくなっていくと思います。もちろん全員じゃないですが。
ーそういった経験を通して、学校の先生にどんなふうに声をかけてほしかったと思いますか?
聡:難しい質問ですね…。もし仮に、虐待について聞くのであれば、その子の安心安全が担保されていて、秘密は絶対に守るっていうことをちゃんと伝えて欲しいと思います。それらを伝えたとしても、本人から言うことは相当難しい。でも、安心安全の担保があるかないかだけでも、少しは気持ちが変わるかなって。
あと、人によって理解力は違うので、その子のレベルに合わせて伝える必要もあると思います。伝えたつもりでも伝わっていない可能性がありますからね。
子どもだけでなく、キーパーソンの安心安全を考えることも必要
ー先生に虐待が見つかったその日のうちに、一時保護所(※)に行ったんですよね。
※児童相談所に付設する、保護が必要な子どもを一時的に保護するための施設。
聡:はい。車にすぐ乗せられた記憶があるんですけど、そのへんの記憶は曖昧で。でも、気づいたら一時保護所にいました。
ーそのときはどんな気持ちでしたか?
聡:すごく不安でしたね。自分の今後がどうなるかがわからなかったから。
虐待を疑われている子どもは、すごく敏感になると思うんです。理想は、信頼関係を築いたうえで今後のことについて話し合えるといいと思います。その際に、その子に合わせた説明をすることが必要になってくるかなと思いますね。
ー大人は「伝えた」と思っても、子どもには伝わっていなかったっていうこともありそうですね。
聡:そうですね。当時の僕はまだ日本語が得意じゃなくて、言葉を理解するのにもすごい時間がかかったんです。だからこそ、言葉じゃなくて絵とか動画とか写真で、自分が今後どうなるのかを説明してもらえるとよかったなって。
ー以前、聡さんが「お母さんを置いて、自分だけ助かるのは嫌だった」という話もしていましたね。
聡:はい。自分が虐待を受けていることが母親にわかると、母親と義父が喧嘩してしまって、結果的に母親にリスクがあるっていうイメージがあったので。喧嘩の火種にならないように、母親にも隠していましたね。子どもながらに母親を守ろうとしていたんです。
そんなふうに、僕の場合は母親を守りたいとか、母親と一緒にいたいって気持ちが何より強かった。だから、虐待がバレてしまうことによって母親がどうなってしまうのかっていう心配もありました。僕だけじゃなく母親に対する支援もあったら、状況は変わっていたんじゃないかなって思います。
人によっては親じゃなくて、おじいちゃんおばあちゃんとか親戚とかだったりするのかもしれないですけど、その子にとって誰が安全エリアにいるキーパーソンなのかを先生たち大人が知っておくのは大事かなって思います。子どもだけでなくその人の安全を保障するのも必要だし、そのキーパーソンと話して、その人が子どもに伝えることができたら、他の誰かが伝えるよりすっと受け入れられると思うので。
ー聡さんの場合、キーパーソンであるお母さんに対する安心安全は、残念だけどなかったっていうことですよね。
聡:結果的にはそうですね。でも、今では仕方なかったと思ってます。大人たちが僕の命を守ることを優先してくれたおかげで今があると思うので。「こうしてほしかった」「こういう改善点あったら良かった」と思うことはあるけど、なによりも命が繋がっていることに感謝していますね。
子どもが求める距離感を察することが大切
ー中学生の時はどのような生活をしていましたか?
聡:中学では球技大好き少年で、昼休みや放課後は校庭でバスケをするのが大好きでした。合唱隊に所属していたのもすごく楽しかったですね。音楽の先生や歌も楽器もできる先輩に憧れて、音楽が好きになりました。
あと、大きかった出来事は、14歳の時に母親が亡くなったことです。その時はしんどい思いを抱えていたけれど、誰にも言えませんでした。でも、中学2年生の時の担任が、卒業間際に「いろいろ本当に大変だったけど、がんばったね」って肩を掴んで言ってくれたんですよ。
そのさりげない一言に、包みこむような優しさを感じて。誰にも気持ちを見せずに張り詰めていた心が、一瞬ほぐれて、帰り道に涙を流したのを覚えています。先生が、事情は知ってながら見守り、気ににかけてくださっていたことがうれしかったですね。
ーその先生のように、聡さんにとって「この先生よかったな」と思えた先生の共通点はありますか?
聡:あくまで僕の場合ですけど、共通点は見守る我慢強さかもしれません。中学2年生の時の担任も、そっと見守って信じてくれてるっていう距離感が心地よかったんです。逆に、近づいてこられすぎると嫌いになっていたと思います。
先生はその子の特性や年齢に応じて、どのぐらいの距離感でかかわってほしいのかを察するのことがすごく大事かなと思いますね。今思えば、小学校の時に虐待を見つけてくれた先生も、距離感を考えながら見守っていてくれたんだろうなと。
あと、中学生のときは保健室の先生が友達みたいな感覚の人でした。よく授業をサボっていたんですけど、寝てていいよって言ってくれて。なんか、そういう居場所があるっていいですよね。今、僕自身が居場所をつくる事業をやっているんですけど、寝られる場所があるってすごいことだなと思うんです。
問題行動の背景にある願いを想像してほしい
ーこの記事の読者には、学校の先生がたくさんいると思うんですが、何か伝えたいことはありますか?
聡:虐待を受けているような子どもの人生にとって、学校の先生がどれだけ重要な存在であるかは、僕自身の人生が証明していると思っていて。そうやって小さな変化に気づけるのも先生の役割だし、親と子どもの関係がうまくいくきっかけになるのも、先生ができることだと思うので。
勉強を教えるっていう業務をしながら、そこまでの役割を担うのはすごく大変なことですよね。でも、それくらい人の人生を左右する可能性を持っている職業だと思います。それは良くも悪くもですが。
ー子どもの小さな変化に気づくことは難しいことでもあると思いますが、気づくためにできることってなんでしょう。
聡:「問題行動はSOSのサイン」っていう言葉がすごくいいなと思っていて。暴言もそうだし、人を殴ったりとか、盗むってこともそうですけど、子どもがどんなに悪いことをしたとしても、その行動の背景にはその子どもが抱えている願いが存在しているんです。
確かに暴言も暴力も盗みも悪いことだけど、寂しくてそういうふうにしてるかもしれない。だから、「なんでそんなことをした?」って責めたくなると思うんですけど、その背景にある願いを想像して、整理していくことも、大人の役割としてすごい大事なのかなと思います。その子自身はその行動の背景を、自分では言語化ができないから。
その際に大人が誘導しないようにするのもすごく大事です。子どもの行動や言葉に対して、大人の価値観に合わせて決めつけて、誘導してしまうことはよくあることなので。
ー子ども自身では言葉にできないことにきちんと耳を傾け、言葉にするのを助けることが大事なんですね。
聡:そうですね。そのための一つのアイデアとして、子どもが思っていることを表現できる場を学校で取り入れたらいいんじゃないかなって思っていて。
例えば、毎日必ず自分の機嫌を確認できる日記みたいなものをつくってもらうとか。「ニッコリマークなら嬉しい、不満マークなら悲しい」といったように、自分で記録をつけるんです。そうすると、いつもはニッコリをつけている子が不満マークだったら、なんでそう感じているかを聞く。そういうコミュニケーションを増やしていったらいいんじゃないかなって思っています。
先生は、誰かの命を救える存在になり得る
聡:以前、虐待防止研修の講師として小学校を訪問したときに、虐待を発見したあとどんな対応をすればいいのかを知らない先生が多くいました。
「対応の方法が学校に浸透してないなら、めっちゃやばいよ」って思って。なにがやばいのかというと、一人の命を奪ってしまうことにつながるからです。
ー先生が虐待を見つけた際の対応を知らないことは、命を奪うことにつながると。
聡:そうです。その対応で、子どもが生き続けることができるかどうかが変わる。命をつなぐことって授業より大事じゃないですか。最低限生きる権利はみんなにあるから、そのために必要な仕組みのことを知らないってまずいことだと思う。それは先生だけの責任じゃなくて、知らないっていう状態をつくっている環境にも課題があると感じています。
今先生として働いている方に伝えたいのは、自分が先生に命を繋いでもらったように、あなたは誰かの命を救える存在になり得るということ。僕は虐待の当事者として、そのことをこれからもさまざまな活動を通して伝えたい続けていきたいです。
(聞き手 / 田中れいか、写真 / 影丘道、編集 / 山中康司)